「外行こうよ、外―!」 と言われて、中西は無理やり外へ連れ出された。 中西の右腕を掴み、ぐいぐいと進んでいく根岸を中西は非難の目で見るが、一向に気にする様子もない。気づいている様子もなかった。 もっと分かりやすいように、引きずられていく両足に力を込めてみた。 それには、さすがの根岸も気づいたようで、ちらりと中西を振り返る。 しかし、すぐに前へ視線を戻すと、またずんずんと歩き出した。 これみよがしに、中西は溜め息をついてみた。 それも無視された。 中西は溜め息をついた。 あてつけの為ではない。 二度目のそれは、中西の心の中に広がった諦めからくる、ただの普通の溜め息であった。 そして、中西は、根岸への一切の抵抗を止める。 そのまま、中西は根岸の歩調にあわせて歩き出した。 根岸が少しでも歩きやすいように、と、中西なりの配慮であった。 中西のそんな反応を、根岸は分かっているのだろうか。 きっと分かっているのだろう。 掴んでいた腕を、根岸は何も言わずに放した。 そして歩き出す。 中西が自分の後をついてくることを、少しも疑っていないようであった。 それが中西には少しだけ悔しくて、思わず自由になった右腕を前へとのばす。 そのまま、ゆらゆらと揺れる根岸の左手を、中西は力を込めてぎゅっと握った。 確かにそうだ。 今更、自分は根岸を置いて寮に戻るつもりもないし、彼の行く手を遮るつもりもない。 だから、根岸の望む通りに、中西は彼の後ろをぼんやりと歩くしかないのであるが、それでも、半ば強引に連れ出された自分が、三分も経たないうちに自分の意思で歩いていて、それを根岸は少しも疑っていないなんて、やはり、悔しいではないか。 しかし、根岸は、突然握られた手に驚いた様子もない。 それどころか、まるで壊れものを扱うみたいに、そっと力を入れて握り返すではないか。 これには、中西も思わず面食らってしまった。 そして、根岸の口から音程の外れえた鼻歌がこぼれ出す。 それに合わせて、繋がった二人の両手も揺れ出す。 勿論、中西ではない。 根岸が揺らしているのだ。 根岸が揺らしているから、繋がれたもう片方の中西の腕もそれにあわせてリズムを刻む。 ゆらゆら、ゆらゆら。 後ろを歩いている中西からは、根岸の背中しか見えない。 顔は見えない。 だから、どんな顔しているかは分からないのだが、きっと笑っているのだと思う。 誰もいない校庭を横切る。 あたり一面に石ころや木の枝が散らばり、濡れた地面はまだ一向に乾く様子がない。 一歩歩き出す度に、二人の足元から、ぐちゃりというぬかるんだ土の音がする。 その中で、二人からは十歩も二十歩も離れた校庭の真ん中に、青々とした木の葉が二枚だけ、静かに身を落ち着けているのが、なんだか奇妙であった。 空を見上げる。 もうほとんど白に近い灰色の雲の切れ間から、鮮やかな青が広がっている。 今日は台風であった。正確には、今日の昼まで。 そのおかげで、今日は久しぶりにサッカー部の練習はない。 勿論、部活が嫌いなわけもないが、たまにはのんびりとしていたい。 そんな日もあるのだ。 「あ、」 突然、根岸が声をあげた。 「どうした?」 思わず中西も声をかけた。 根岸はぎゅっと手を握ったまま、一度振り返って、にこりと笑う。 そして、少しだけ小走りになる。 それに合わせて、中西もわずかに大股になった。足の長さの違いだ。 二人の目の前に、古ぼけた白い木製のベンチが現れた。 この学園内で知らぬ者はいないというほど、ある意味でとても有名な代物だ。 非常に年代ものなのである。 安定感を重視した為なのか、さして広くもないベンチに足が六本の作りをしていたのだが、既にそのうちの二本が折れている。 二人が入学した時は、確かまだ五本あったのだが、気づけば四本になっていた。 ただでさえ安定が悪いうえに、学園ができた当初からあったというそのベンチは、すっかり老朽化していて、誰かが座るたびに、ぎしぎしと嫌な音をたてて座る者の不安を煽った。 今では、そこにベンチがありながらも、その隣の地べたに座ってしまうほど、生徒から覚えはよろしくない一品であった。 よくもまあ、今日の台風で木っ端微塵にならなかったものだと、中西はある意味で感心した。 そのベンチに向かって、根岸は嬉しそうに歩いていく。 そして、ベンチを前にして、二人はぴたりと止まった。 ようやく握っていた手を離した根岸は、ポケットの中にぎゅうぎゅうに押し込まれていたハンドタオルを、強引に引っ張り出す。 何をするつもりだろう、と中西が何も言わずに見ていると、根岸はそれで雨で濡れたベンチを丁寧に拭き始めた。 背もたれと腰かけの部分だけ、根岸はせっせせっせと泥を拭っていく。 そして、粗方綺麗になると、満足そうに根岸は一つうなずいて、汚れたタオルを小さく畳んだ。 そのまま、ポケットに戻そうとした根岸を、中西は慌てて止める。 不思議そうに首を傾げる根岸の手から、中西はタオルを奪い取る。 それを根岸の目の前で、これみよがしに絞ってみせれば、ぽたぽたと染み出す泥水に、さすがの根岸も嫌な顔をした。 「手で持って帰れ、手で。」 そういうと、中西は畳み直したタオルを根岸に返す。 頷きながら受け取った根岸は、なぜか、パンパン、とそれを叩いて、そっと肘掛の上に乗せた。 そして、当たり前のように根岸は中西に向かって言った。 「よし、座ろう、中西。」 正直、中西は遠慮したかった。 当たり前だ。 普段から危なさでは定評を誇っているというのに、その上、強風と突風で弱っているだろうベンチに、好き好んで座りたくはなかった。 おまけに、実をいえば、中西はこのベンチに一度も座ったことがない。 悪い噂と友人からの忠告を、入学してすぐに聞いてしまったからである。 中西は、ちらりと根岸を見た。 笑顔であった。 根岸だって、このベンチのことは知らないはずはないのに。 「ほら!中西!」 せかされて、中西は一歩、ベンチに近づいた。 二歩、三歩。 それだけで、もう充分だった。 前を向いたままでは座れない。 根岸と中西は椅子に背を向けた。 根岸が中西の左手をぎゅっと握った。 「そっとだからな!そっと、そーっと!いっせーのせ、で座るからな!」 たかだかベンチに座るのに、根岸は掛け声の打ち合わせまでしてみせる。 繋いだ手は、お互いのタイミングを合わせやすくする為か。 「いくぞ!いっせーのー…」 せっ!! ぎしり、とベンチは勿論悲鳴をあげた。 体重を全てベンチに預けてしまうのは怖くて、二人して背もたれには寄りかからない。 自然と体が少し前屈みになって、猫背のようになった。 不満を訴えるように、ベンチはしばらく、ぎしぎし、みしみしと小さく嫌な音をたてていたが、息を潜めて、根岸と中西がじっとしていると、しばらくすればそれも治まった。 ちらりと中西が隣に座る根岸を見れば、なんと息まで止めているようであった。 呆れながら、後頭部を驚かせないようにパシンと叩くと、根岸はブハっと溜めていた息を思い切り吐き出した。 中西はぼんやりと荒れた校庭を見ながら、浅く深呼吸を繰り返す根岸に問いかける。 「で、ここで何がしたかったわけ?」 中西が見える限りでは、やはり人は誰もいない。 サッカー部同様、おそらく他の部も今日は休みなのだろう。 それでも、明日には校庭も渇く。整備だって入るに違いない。 そうすれば、いつものように、この場所は生徒で賑やかになる。 声の絶えない、賑やかな景色に。 しかし、今は二人だけ。 中西と根岸、二人だけだった。 「もうちょっと待ってみれば分かるよ。」 根岸は楽しそうに言った。 「情報源は誰?」 「渋沢。」 「なら、大丈夫か。」 「なんだよ、それ。」 「いや、三上とかだったらガセな可能性もあるなー、と。」 「あははー。」 「相手が根岸だし。」 「どういう意味だよ!!!」 声を荒げる根岸に、中西はくつくつと笑った。 仕方ない。 根岸が人気者だからいけないのだ。 そういうと、根岸は派手に顔をしかめる。 「人気者っていうのは、皆に愛されるものなんだぞ、中西。」 まさに、その通りではないか。 「そして、苛められたりしないものなんだぞ、中西。」 それは肯定しかねる。 この世には愛ゆえの苛めも存在するのだ。 根岸にはどうしてそれが分からないのだろう。 分からないから面白いのだが。 中西が無言になると、根岸は口をへの字に曲げて、上を見上げた。 そして、 「あ!!!」 声をあげた。 それにつられて、中西も笑いをひっこめて空を見上げる。 虹だった。 大きな大きな虹だった。 たくさんの雨と風を連れた台風が、空中に漂う汚れを全て持っていってしまったみたいに、澄み切った空。 僅かに取り残された灰色の雲も、風に流されながら、ゆっくりゆっくりと校舎の向こうに消えていく。 それに飛ばされてしまうことなく、大きな虹は七色の光を称えながら、中西と根岸を見下ろしていた。 「あー……」 わけもなく、中西は唸り声をあげた。 なるほど、これが見たかったのか。 見せたかったのか、根岸は。 しばらくの間、飽きることなく二人して馬鹿みたいに空を見上げていた。 そして、中西がようやく視線を地面に落としたとき、根岸はもう空を見てはいなかった。 伺うように、中西を見ていた。 だから、中西は、少しだけ笑ってみせて、根岸に向かって言った。 「大当たりだったな。」 その言葉に、根岸は一瞬きょとんとした後、それはそれは嬉しそうに笑った。 たまには、こんな日もいいだろう。 そう思った、午後である。 >>> 気取って小細工を入れたら気取りきれなかった典型例です。 |