もうすっかり見慣れた灰色の玄関扉の前にバクラは立っていた。

夜風に全ての熱も温もりも奪われた、鉄のそれが眼前に佇む様は、まるで全身全霊をかけて、バクラの来訪を拒んでいるかのようである。
時刻は、とうに夜の十時を回っているというのに、無造作に左手をポケットにつっこんだまま、空いた右手でチャイムを押すその様子からは、一般的なTPOなど微塵も感じられない。
そして、実際、バクラはそんなことなどこれっぽっちも気にしていないのだから、それは真実と言えた。

バクラがこんな時間に、この場所に立っているのには訳がある。
いや、バクラがこの家の前にやってきたのは、あくまでバクラがそう望んだからであって、他に理由があるわけではない。
ただ、こんな時間に、しかも明日は平日であるというのに、バクラがここにいられたのは、ちょっとした嬉しいハプニングだった。
いつもは、明け方近くまであーだこーだ、と夜更かしを繰り返す宿主が、なぜか今日に限っては体の主導権をバクラに明け渡し、さっさと中に引きこもってしまったのである。
その理由も、いい加減そろそろゲームよりも枕が恋しい、とかそんなものだったのだが、宿主のこんな気紛れはそうそうあるものではないので、いや、これを逃せば、次が一ヶ月先なんていう未来も当然の如くありえた。
よって、一般常識がなんのその、俺様、歳は四桁超えです、と言わんばかりに、バクラは意気揚々と寒風吹き荒ぶ夜の街へと駆り出したのだ。

そう、夜の住宅街へと、だ。

町外れの路地裏でもひょこりと覗いて、たまには拳を唸らせても良かったのだが、朝起きてその唸った拳に少しでも傷がついていれば、自分のこれからがどうなってしまうのか、想像するだけでも恐ろしい。
それに、この静かな住宅街の中には、そんな血飛沫舞う路地裏よりも、もっともっと魅力的な場所があるのだ。
どうせ暇を潰すなら、断然こちらの方が良いに決まっている。わざわざガキがたむろする路地裏なんぞに赴く必要がどこにあろうか。

というような過程を経て、バクラは今こうして、とあるマンションの一室の前に立っていた。
そして、付け加えておくが、バクラの中に、相手を気遣う心配りだとか言ったものは、微塵もない。欠片もない。米粒すらない。
そもそも、先に言ったとおり、これを逃せば、次に機会がまわってくるのがいつになるのか、本当に検討がつかないのである。いくら無駄に歳を食っていようと、あの宿主の気紛れだけは、バクラでさえ読めない。
ならば、そんな状況下における自分が、相手の家を訪ねるのに、どうして相手を気遣う必要があろうか。
大有りだよ!とこの家の家主が聞いたら叫び出さんばかりの持論であるが、幸いにして、鉄の扉の向こうにいる彼に、バクラの考えが伝わることはない。それが、本当に幸いであるかどうかはまた別として。

ともかく、そんな一般常識がごっそりとこそげ落ちた理由を堂々と掲げながら、バクラが訪ねてきたこの家の主人は、玄関のベルに気づいていないのか、気づいていて無視しているのか、ともかくバクラの来訪を迎える様子はない。
そして、家主の反応は間違いなく後者といえた。
この家の主人が、自分と負けず劣らず可愛くない性格をしていることを、バクラはよく知っている。
それに、バクラはここにくる前、この部屋に明かりがついているのを、確かに確認しているのだ。
その辺りはバクラも抜かりが無い。
この家を訪れて、温かな歓迎など受けたことはなかったから、そんな家主の対応にも、バクラは何を思うわけでもない。
ただ、この扉の鍵をなんとかして開けさせる為に、あれやこれやとバクラは思案した。
思案はしてみたが、まさか蹴破るわけにも行くまい。
前に一度、近所の皆様がお怒りになるのを承知で(まあ、それを畏れて家主が鍵を開けるのを狙ってやった訳だから、当然だ。)家主が出てくるまで名前を呼びながら扉を叩き続けたことがあったのだが、開けてもらったものの、その日は一度たりとも口を開かないばかりか、眼も合わそうとせず、つまり、シカトを食らったわけであるが、とにかく、そんな経験があったので、出来ることなら同じ過ちは繰り返したくない。

どうしたものか、とバクラが低く唸り声を上げると、バクラは思いついたように、玄関扉のノブに手を伸ばした。
何も、鍵をこじ開けようという訳ではない。
うっかり、家主が鍵をかけ忘れてなどいないだろうか、と思ったのである。
しかし、そう考えてはみるものの、バクラはそれにさして望みがあるとは考えてはいなかった。
元来、この家の主人は以外とこういったことにはしっかりと気をつけている。几帳面なのだ。
いつこの家を訪れても、前回と全く同じ場所に同じものがきちんと鎮座しているのに気づいて、バクラは感心を通り越して呆れたことがあった。
そんな彼が、まさか鍵をかけ忘れるなどある筈がない、と思いながらも、バクラは、冷えたドアノブをぎゅっと握った。

すると、どうしたことか。
バクラの予想に反して、灰色の鉄扉のノブは、バクラの来訪を迎えるべく、ガチャリと音と立てながら素直に回転するではないか。
思わず、内心バクラは少なからず驚いた。表情にこそ出てはいなかったが。
そのまま意味もなく、鍵のかかっていないノブを何度も確認するかのように、がちゃがちゃと回転させてみるが、すぐに飽きたバクラは、そーっと、玄関扉を手前に引いた。
そこから、ひょっこりと家の中を覗き込むが、家主が現れる様子はない。

フム、とバクラは一つ頷いた。
バクラが考える素振りを見せたのは、それだけだった。

次の瞬間には、閉まった玄関扉を背に、バクラは玄関で靴を脱いでいた。
どういう理由かは分からないが、とにかく、こうしてバクラに都合よく開いてくれているのだから、入らない理由もあるまい。

俺様良ければ全て良し。

そう呟いて、家主の許可もなく、バクラはづかづかと他人様の家に上がりこんだ。





正直、拒絶も歓迎も受けない来訪は、バクラにとってこれが初めてであった。
大抵の場合、家主は嫌々ながらも、本当に嫌々ながらも、その重い腰をあげて、バクラを追い返すべく玄関までやってくるからだ。
しかし、結局、最後にはバクラに押し切られて、その意とは反して、鍵を開けてしまうのだが。
だから、バクラはこの家を訪れて、玄関で彼の顔を見ないのは初めてだった。
それに首をかしげながらも、バクラは決して広くはない家の中で、家主がいるであろうリビングに歩を進める。
そもそも彼が鍵をかけ忘れること自体、有り得たことではないのだ。
自分の来訪を待っていてくれたのだ、と取ることもできたが、それを素直に受け入れるには、バクラに対する家主の好意は決して上々ではなかった。
最悪とまでは、さすがに言わないが、少なくとも、相手から好かれるような行動をとった覚えは、バクラには全くなかった。
結局、根っこのところで人のいい彼を、無理やり丸め込んでいるだけなのだ、いつだって。

「御伽ー?」

反応はなかった。
確かに、家主はそこにいるはずなのに、人の気配を感じない。
首を傾げつつも、バクラはリビングへと続くドアを勢いよく押し開いたのが、不覚にも、飛び込んできた光景に、思わず声もなく立ち竦んでしまった。
「は…?」
そんな間抜けな声まで上げてしまったバクラを誰が責めることが出来ようか。
どうして信じることなど出来ようか。


あの御伽が、バクラの来訪に気づくことなく、机に伏したまま熟睡しているなんて。


バクラは無意識に、中も外も真っ白になった頭を抱え込んでいた。

あの御伽が!あの御伽が!あの御伽が!!

いったいバクラは普段の彼をどのように認識していたのだろうか。
いや、まあ、その言葉通りの認識だったのだろうが、ともかくバクラは、その常からでは到底信じられない光景に、頭を抱えたまま凍りついていた。

数刻、室内に御伽の穏やかな寝息だけが響いていたが、しばらくすると、ようやく自分のあまりに間抜けな状態に気づいたバクラが、はっとしてその呪縛から逃れた。
そして、再びその視界に御伽の姿をとらえると、思わずバクラはじりじりと後退ってしまう。
しかし、当然、バクラの背中はすぐに壁にあたり、それ以上の逃避を阻む。
そうなってしまうと、ますますバクラは彼の姿から目を逸らすことが出来なくなった。
無意識に、ごくりとバクラは唾を飲み込む。
まるで、目の前に宇宙人の乗ったUFOが着陸してきたかのような反応である。

いっそ彼を起こしてしまおうかと、口を開きかけるが、喉がカラカラと乾いて声が出ない。
そんなバクラの動揺など気づきもしない御伽は、一向に目を覚まそうとはしない。
意を決したバクラが、一歩二歩、そしてまた一歩と、そろり、そろりと御伽に歩み寄る。
とうとう、御伽のすぐ脇までやってきたバクラが、自然、見下ろすような形になった。
もしや狸では、と勘繰って、バクラは腰を折って、顔を近づける。
バクラの長い髪の先が、サラリと御伽の頬を掠めて、慌ててバクラは体を起こす。
それでも、まだ、目覚めない。
常の御伽だったならば、バクラの前に寝顔を晒す云々の前に、ここまで彼の接近を許したりはしないだろう。
もう手前五歩くらいの時点で、その場から避けるか、手近なものを投げつけるか、冷ややかな言葉で一徹するかのどれかである。
だから、よっぽど御伽の眠りは深いに違いないのだ。

そんな御伽に、驚きからなのか怯えからなのか分からない気持ちを抱え、バクラは鼓動を速くする。
そもそも、こんな風に、御伽が無防備な姿をバクラに見せてくれたことなど、たったの一度すらなかったのだ。
思い返してみても、バクラの前の御伽は、怒っているか呆れているかの、二つに一つである。
バクラは、御伽の笑顔というものを、他人越しでしか見たことがなかった。
感情の起伏が少ないとはいえ、決して無愛想ではない御伽を考えれば、普段からのバクラの素行がいかに悪いかは、火を見るよりも明らかである。

弱味も、陰りも、まして無防備な姿なんて、バクラに開けてみせるはずがない。
それなのに、バクラのすぐ隣に、安心しきった顔で眠る御伽がいる。
なんと奇妙な光景だろうか。

知らず、常のバクラの調子もすっかり狂ってしまう。
そうだ、普段のバクラだったのならば、こんな美味しい状況をみすみす逃すはずはない。
バクラの前で無防備に眠る御伽なんて、これ以上の玩具がどこにあるだろうか。

そう、思っているのだ、バクラだって。
なのに、バクラは焦る。


手が出せないのだ。


好奇心に任せて、その髪に触れることすら、バクラは出来ない。
理由なんて分からない。いや、分かってはいる、分かってはいるのだ。しかし、それをどうして素直に認めることができるだろうか。
まさか、自分の呼吸一つにすら気を使うほど、御伽の眠りを妨げたくない、なんて馬鹿なことを本気で考えているなんて。
そんな自分の感情に、バクラは愕然としながら立ち竦んだ。
他人の感情の裏の裏に対してでさえ機敏なバクラが、よもや自分自身の気持ちを汲み違えるはずもない。いや、今ならば、そうであったらどんなに良いか、と思う。
バクラの理性に反して、暴走を続ける心に全力で待ったをかけるが、それすらも振り切って、バクラの胸にはじんわりと温かいものが広がっていく。
こんな感情をバクラは知らない。
たとえ知っていたとしても、これがそういう類に形容されるものなのだ、と素直に認めるには、バクラが今まで歩んできた人生は壮絶だった。
こんな気持ちを抱く暇すらなかったし、それを手に入れることが、バクラにとってプラスになるのだとは決して考えてはいなかった。
だから、こんな感情の解決法など、バクラは知らない。
命をかけた修羅場だって、いくつも潜り抜けてきたが、そんな能力を求められたことなど一度もなかった。
欲求に任せて他人とそういう関係をもったことは確かにあったが、それに、この不可解な感情がついて回ったわけもない。相手はどうだったかなんて、知ったこっちゃないが。
ともかく、バクラはこの手の方面に関しては、完全なる素人であった。
突然、沸き起こった自分の気持ちすら対処できないほどに。

泣く子も黙る盗賊王。

愕然とするバクラの胸の中で、そんな輝かしき称号が、音をたててガラガラと崩れ落ちていった。





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随分と前に書いた文章を修正。
いくら年月が経とうとも、わたしのバクラは凛々しくなってはくれないようです。そうですか。